神経内科という診療科

神経内科という科名を聞いて、一般の人はどういうイメージを持つのだろうか。心療内科や精神科と区別が付かない人や、全くイメージができない人も多いのではないかと思う。身近なところでは偏頭痛をはじめとする諸種の頭痛があるが、このほかにもアルツハイマー病などの痴呆、パーキンソン病筋萎縮性側索硬化症(ALS)、筋ジストロフィー、脊損(脊髄損傷、これは整形外科と分け合っている部分もある)。……そうなんですよ、けっこう絶望的な疾患が多いんです。

とりあえず大学病院にいる限りでは、初期症状のみで診断に困る人はいても、コミュニケーション不能な人はそれほどいない。しかし今日見学に行ったとある国立病院にはそんな人たちが病棟を埋め尽くしていた。運動機能が崩壊してしまって動けない人、痴呆が進んでまともなコミュニケーションが不可能な人、ただうめいている人。

その中でも印象に残った、とくに絶望的な二人の患者さんがいた。


ひとりめ。

福山型筋ジストロフィーという病気がある。幼児期に発症する筋ジストロフィーとしてはデュシェンヌ型とともに双壁(あえて「璧」ではなく「壁」)をなす難病中の難病。デュシェンヌ型の多くは通常の発達コースをたどるが、小学校に上がった頃から歩行が困難になり、何もしなければ17歳ごろには呼吸が出来なくなって死んでしまう。一方福山型では発達の遅れが目立ち、一生を通じて立って歩くこともなければ両親とすら有意なコミュニケーションを取ることもないままという人が多い。

いずれも何もしなければ呼吸筋麻痺で死んでしまうわけだが、人工呼吸装置があれば10年、人によってはそれ以上の延命効果がある。17歳から27歳といえば人生でも最も活動的で実り多い時期である(自分を省みるとこう叫びたくもなる……ほんとか?笑)。健康な人と全く変わらない知能を持ち、それ以上の好奇心を持つだろうデュシェンヌ型の患者さんにとって、この時期を生きることができるというのは何よりもすばらしい。加えて近年はコンピュータ技術やインターネットの発達で、患者さんたちは積極的に自己を表現し他者と交わることができるようになっている。この10年には極めて重い意味がある。

しかし、福山型の患者さんについては事情が異なる。喋ることや立つことはおろか、笑うことすらできない患者さんにとって、人工呼吸器装着によって得られる10年の延長にどんな意味があるのだろうか。その意味すら考えることができないのに。ご両親が切に望んでのことであれば、それは間違いなく意味がある。この患者さんは、自宅療養中に呼吸困難をきたし、自宅近くの救急病院で挿管され、人工呼吸器をつながれてしまった。一度つながれた人工呼吸器は外すことができない。たとえ本人の意思であっても、である(もちろん医師が外せば殺人罪)。そして病状が悪化し、その病院で見ることができなくなり、筋ジス専門とされるこの病院が押し付けられたわけである。自宅から遠いこの病院に、両親はめったに来ないという。この患者さんが得るであろうこれから10年は、いったい何なのだろうか。ただ寝たまま、両親や兄弟とすら心を通わせることもなく、喋ることも笑うことも泣くこともなく、機械の命ずるままに呼吸する10年とは、いったい何なのだろうか。


ふたりめ。

筋萎縮性側索硬化症(ALS)という病気がある。感覚機能や精神機能は正常なまま、運動機能だけがおかされていく神経難病である。最初は手や足の筋肉がちぢこまって動かなくなり、徐々に舌やのどの筋肉がおかされてしゃべったり食べたりすることができなくなる。最後には(患者さんの10%はもっと早期に)呼吸筋が麻痺して死んでしまう、そんな病気である。筋ジスの患者さんより状況が悪いのは、口・舌・のどの筋肉がだめになりやすい点だが、ただ、どうしたわけか目の周りの筋肉だけは末期に至るまで正常なまま保たれるので、それを利用してコンピュータやまばたきを介したコミュニケーションを保つことはできる。

この病気の患者さんにとっては、呼吸筋の麻痺がクリティカルなので、人工呼吸と栄養さえきちんとしていれば生き延びられる。ところがだ。目の周りの筋肉が保たれるといっても実は相対的な差に過ぎず、呼吸筋が麻痺した後に結局麻痺してしまう運命にある。そうするとどうなるか?

これが世にも恐ろしい「閉じ込め症候群(locked-in syndrome)」である。

耳は聞こえる、目は見える。考えることもできる。しかし運動機能が完全に麻痺しているために、手も足も表情も、まぶたも眼球もなにひとつ動かすことができない。もちろん声も出せない。セキもクシャミもゲップもシャックリもできない。呼吸と栄養は機械がやってくれるから死ぬこともできない。すばらしい考えが浮んでも誰にも言えない。なんて生易しいものではない。身体のどこかが痛くても、たとえ骨が折れてもガンができて痛んでも、それを知らせる手段が徹底的に奪われているのだ。生き地獄だ。僕は彼が味わっている地獄がどんなものか知ることはない。彼しかわからない地獄だ。僕は、彼の精神機能が既に廃絶しているか、もしくは発狂していてほしいと心から願うしかなかった。

これがくも膜下出血かなんかで起こったものであれば、多少は回復してくる望みが持てる。しかし、ALSが原因で起こった閉じ込め症候群は回復の見込みゼロである。これも結局、ALSの病状が進行して呼吸麻痺が出てくる前に「人工呼吸器をつけるか否か、つけた場合とつけない場合のメリットとデメリットは何か」「つけたら二度と外せないこと」をちゃんと患者さんに説明し、議論を尽くさなかったために、彼はこうなってしまったのである。彼もまた、救急で強引に人工呼吸器をつけられてしまったのだ。つけられてしまいこの病院に移ってきた後で初めて説明を受けた彼は一瞬、絶望的な表情を浮かべたそうである。そして一年後、彼は魂の牢獄(たぶん)に堕ちてしまったのだった。


僕の勝手な印象だが、僕を案内してくれた方も、こうした状況に絶望しているらしかった。微笑みの中に苛立ちを隠し、時には患者さんを嫌悪するようなそぶりも見せた。なんてひどい医者だ、と思うかもしれないが、こんな状況で何もできない自分や医学・科学を嫌悪し、それが相手に投影される心の動きは想像に難くない。おそらく腫瘍専門医も共有する機序であろう。腫瘍専門医よりももっと悪いのは回復の望みがあらかじめ絶たれていることだ。俺はいったいここで何をしているんだろう、というめまいにも似た思い。もっとも、ここに書いたことは、僕が受けた印象をこの医師に投影しただけなのかもしれないが。


その帰りに、その病院の隣で植物を育て、そして植物を育てる人を育てる、そんな仕事をしている友人のもとを訪れた。本人はきついといっていたが、すぐそばのあの病院で起こっているあの絶望に比べて、なんと希望に満ち溢れた明るい仕事なのだろうか。しかもこの学校は来年、初めての卒業生を送り出すのだ。かの医師は、どういう希望を持って医者の仕事を続けていけるのだろうか。最後にそれを彼に聞いておくべきだったと思った。