憲法のこと

 日本国憲法の改正論議が盛んになるにつれ、いわゆる護憲派は警戒の色を剥き出しにしてきている。「大学の講義で学生として憲法学講義を選択した人間は山ほどいるはずなのに、何故安倍政権の改正論議が危険だと思わないのだろう」などと嘆いてみせる向きもあったが、大学2年程度の浅い知識、狭い見識で世の中を斬ろうとするのは「大二病」の典型的な症状だ。学生たるもの、むしろ講義で与えられた枠組みを疑えるようでなければならない。
 ところが所与の枠組みを墨守しずっと無批判でやってきたのが、他ならぬ大学で教鞭を執っている我が国の憲法学者たちである。むろん、近代憲法の概念は西欧諸国からもたらされたものだ。しかし我が国の憲法学者たちは、西欧の概念を唯一無二の普遍原理と崇め奉って無批判に受け入れるばかりで、我が国の実情に合わせて作り替えるという作業を怠ってきた。換骨奪胎はそもそも日本の古来からのお家芸であったはずだが。
 西欧の理論を日本に移植するにあたっては、それらには必ずキリスト教の唯一絶対神ヤハウェ)の存在が内包されているということに留意しなければならない。西欧憲法理論の主軸をなす自由、平等、人権、権力論などにおいて、ヤハウェは陰に陽にその影響を落としている。伊藤博文はこの点に気付いており、日本に西欧的立憲政治の法原理を輸入するにあたって、日本に強力な一神教が存在しないことを気にしていたとされ、このために本来は多神教である神道を、天皇を現人神と位置づけることで一神教擬制することが始まった、という説もある。

 平等の概念は、元をただせば聖書の「人間は神の下に平等である」という記述に源があるが、キリスト教が人間を平等に扱ったことはない。神の啓示を未だ受けざる諸民族を蔑みお節介にも「啓蒙」しようとし、受け入れられなければ攻撃するのがキリスト教のいつものやり方である。 ヨーロッパの諸王国は「王権神授説」を盾に絶対王政を正当化してきた。市民革命以後は「社会契約説」によって王の政治権力は相対化され、「立憲主義」によって王の手足は縛られ、遂には「人民主権」が王権に取って代わった。人民には君主の権力でも奪い去れない権利が神により与えられているとする「天賦人権論」が、「人民主権」の裏付けとなった。
 血塗られたキリスト教と欧州の歴史の単なる派生物でしかないこれらの法理論を、どうしたわけか人類普遍の原理などとみなしてほぼ無批判に受け入れ、未だに金科玉条としている学者が象牙の塔に蟠っている、というのが日本憲法学の現況である。日本の文化や歴史は、今も昔もこれからも、欧州ともキリスト教とも遥かな距離をとっている。現実から乖離した理想を掲げるのみで実態に即さない法理論に何の意味があろうか。

 キリスト教の唱える平等は神を前提としており、キリスト者は神に帰依しない者を蔑み殺そうとさえする。一方、一般的な日本人はそもそも多神教の心性を有しており、天照大神や大和武尊といった神話に登場する神格はもちろん、菅原道真公のような歴史上の人物、国のために命を落とした無数の英霊、さらには大日如来帝釈天、弁天、ヤハウェ、サンタクロース、織り姫と彦星といった外国の神々や聖人さえ分け隔てなく尊び崇める。自然のもの、火や雷のような恐ろしいものから、木や草、石ころ一つにまで平等な神性をみる。平等という言葉は本来、このような日本人の心性を表すものではあるまいか。 キリスト者にとっての自由/権利(「天賦人権論」にいう「自然権」)は神が与えた無限の自由/権利だ。神との関係さえ良好であれば、家族を蔑ろにしようが隣人と殺し合おうが他人の自由/権利を奪おうが、自由なのである。一神教を持たない日本人にとってこのような自由/権利は耐え難い頽廃でしかなく、すべて人類に普遍的な原理ということはできない。畢竟、自由/権利を求める人間同士がせめぎ合う現実世界では、誰か一人の自由/権利を無制限に認めると他の自由/権利が限りなく奪われていくので、全員の自由/権利が最大化するように互いに譲り合わざるを得ない。これが公共の福祉であり、自民党憲法草案に言う公益および公の秩序である。もし譲り合うことを拒否し無制限な自由/権利を欲する不届き者がいたら、国民が付託した国家権力がこれらを制するほかない。
 自民党憲法草案は「立憲主義を無視している」などと批判されるが、実は愚直なほどきわめて「立憲主義的」である。王といえども憲法に書かれている権力以外は行使できないとする「立憲主義」は「人民主権」とは本来相容れない概念である。人民が主権者として無知蒙昧無定見の故に暴走するのであれば、憲法=国家が縛らなければならないのはこれら愚鈍な人民の手足だからである。実際に現在の我が国において、無知蒙昧無定見な故に声も大きい一部の国民、もしくは悪意を持つ特定の外国人が、本来与えられるはずのない自由や権利を求めて暴走している。憲法=国家はこれらの手足を縛る必要がある。山本太郎はたったひとりで「衆愚」を体現できる偉大なる小物であるが、彼に代表されるような愚鈍で無知な大衆の誤った声の塊(しばしば急進派によって「民意」などと僭称される)が国家を漂流させるようなことを許してはならない。この点において従来の憲法理論は何の対策も講じ得ていない。
 バカが政治に付け入る隙を与えている原因は国民主権だ。身勝手な振舞いを恥じぬ人間が蔓延する原因は、キリスト教的頽廃的自由に基づいた基本的人権の誤った拡大解釈だ。自由も平等も基本的人権立憲主義も、何一つ人類普遍の原則などではない。

 そもそも、法は、骨組みに粘土を塗り付けて「造る」塑像ではなく、大きな塊から不要なものをそぎ落として「創る」彫刻である(創はもともと「槍によってつけられたきず」をあらわす)。その法を共有する人々の思念が、不要なものをそぎ落として一つの法の形を創る。法は、集団/民族によって自然に選択されるものであって、無批判に輸入してきた概念を押し付けられるものであってはならないし、外の集団(外国人、国内に住む外国籍人)のそれに従うなど言語道断である。
 今後、日本国憲法の部分的改正にとどまるのか、全く新たな憲法の樹立まで行くのかはわからないが、「現在を生きる」そして「これまで生きてきたすべての」日本国民の思念が自然に選択してかたち創られる新憲法の制定を心より願っている。