再録: 僕はなぜ死刑に賛成するのか

※旧サイトからの転載です。

日記にもしばしば書いてきたが,僕は死刑に賛成である。それも積極的賛成である。おそらくかなり珍しい部類に入る人間であろう。賛成の人というのは,大部分が「犯罪を防止するためには仕方がない」という消極的賛成である。もちろん国家の手によって一人の人間の命を奪うなどという行為は褒められたものではない。賞賛などできようはずもない。そういう意味では消極的賛成といえるかもしれない。しかし僕は,ある積極的な意義を,死刑という制度に認めている。それは癒しである。

死刑存置の意義

死刑というものはそもそも何のためにあるのか。もとをたどれば王が気に入らない奴を殺すという恣意的なものに過ぎなかったかもしれない。市民革命を通じて,国家の主体は王から市民に替わった。市民という集合体が気に入らない奴を殺す,というのは言い換えると社会的制裁である。これが恣意的に行われないように,憲法という手枷足枷でしっかりと国家を縛り付けた。感情で裁くようなことがないように,堅固な理論によって刑罰の行われ方を律する方法をとったのである。

そうなると,死刑を存置することに積極的な理由付けが必要となる。近代国家はいずれもこの行為を行わぬまま,死刑という制度を存置しつづけた。だが,国民主権国家において,主権者たる国民を国家の手で殺すことは矛盾となる。国家に対して明らかに害を為す者はもはや主権者としての資格は認められないから,これは殺しても全く問題はないであろう。日本の刑法典でも,内乱罪の法定刑は死刑ただひとつだけだし,外患誘致罪は死刑か無期禁錮である。国民のためにならない政治をしている政治家は内乱罪適用の十分条件を満たすと思うが,これはとりあえず置いておこう。

さて,それ以外の強盗・殺人・放火などの重大犯罪についてはどうだろうか。これも主権者たる国民の生命・財産を奪ったわけだから,間接的に国家に対する反逆といえないことはない。よって死刑を科しても問題はない。というのが今までの考え方ではなかろうか。

死刑廃止論の論拠

①しかし,それが死に値するほどのことなのか,一定時間の自由を奪うだけでも十分なのではないか。確かに犯人は重大な罪を犯したが,生きて償うという方法が取れるのではないか。このまま生き続ければ改悛し,更生の道を歩むかも知れないではないか。殺してしまえば,更生の道を閉ざすことになりはしないか。命は命を持って償わせるというのはハムラビ法典のようでいかにも野蛮で時代遅れである。何より,人の命を奪うということは残虐なことではないか。一方では国民が殺人を犯さないよう規定しておきながら,一方では国家の手によって殺人を行うのは矛盾ではないか。

②さらに,冤罪(濡れ衣)の問題もある。もしある人が,重大事件の濡れ衣を着せられて死刑に処せられたとしたら,あとからその人が無実であることが分かっても取り返しがつかないではないか。刑事訴訟法は,三審制・国選弁護人制度などを通じて裁判における誤判の可能性を減らしているが,わが国では有罪判決が99%を超えていることから,「被告人は有罪である」という推定が裁判官に働いているものと考えられ,このために判断を誤ることが多い。死刑はその誤謬を訂正する最後のチャンスを奪ってしまうのではないか。

以上は死刑廃止論者の意見である。これにさらに一般予防効果の問題を加えてもよい。何か重大な犯罪を犯そうとしたときに,死刑制度が存置されていれば死刑怖さに犯罪の実行を思いとどまるであろう。死刑制度があることによってこうして生まれる効果の事を一般予防効果と呼ぶ。これは僕も否定する。死刑は本気で誰かを殺そうと考えている人間には無力である。自暴自棄になっているので,「自分は死刑になっても構わない」と考えているか,あるいは頭の中が真っ白であろう。殺そうと考えてさえいないかも知れない。殺人を犯した者が取調べでしばしば口にするセリフは「カーッとなって,気がついたら相手が死んでいた」である。

死刑廃止論②への反論〜まず誤判をなくす努力から〜

ここからは反論である。②からいこう。これは司法制度の改革で担保すればよい。誤判によって,たとえ死刑でなくても自由刑(懲役と禁錮)に処せられた場合,失われた時間が取り返しのつかないものであることに変わりはない。時間だけではない。ビジネスチャンスを失うかも知れない。信用も失う。家族の人生までめちゃくちゃになる。心の傷も大きい。国家による補償の制度はあるが,金でカタのつく問題ではないし,その額も受ける傷の大きさに比べればわずかなものである。誤判は死刑のときだけに問題になりやすいが,もっと軽い刑罰であっても濡れ衣を着せられた人の受けるダメージは大きいのである。誤判があるから死刑をなくせというのは本末転倒だ。まず誤判をなくす努力から先にやるべきだろう。

死刑廃止論①への反論〜長すぎる自由刑の問題点〜

死刑制度を廃止したアメリカ合衆国のいくつかの州やイギリスなどでは,仮釈放や恩赦のつかない終身自由刑や,単純加算方式の懲役刑(懲役200年,などというあれである)などが導入された。これには経済的な問題がある。懲役刑は無償労働,禁固刑は自由の簒奪が主な刑罰の内容であるから,受刑者には最低限の生活を保障しなければならない。そして近年,最低限の生活のレベルが高く見積もられすぎ,所内の生活はかなり快適なものとなりつつある。どう考えてもこれは外気と同じ温度の俺の部屋よりましじゃないか?というありさま。受刑者の食費・被服費,刑務所の建設費・維持費,刑務官の人件費。国家は主権者の生命や財産を失った挙句,さらにこれだけの出費を賄わねばならない。国家のお金の出所は税金である。国家反逆に準ずる犯罪を実行した人間を,なぜ生涯に亘って税金で養わなければならないのか?しかも俺の部屋よりましな環境で。

犯罪を生きて償えるかという問題。最低賃金を5000円/日として,労働基準法の規定の範囲内で20年働くとどうなるか。2600万円。刑期が80年だとしてこの期間いっぱい無理やり働かせてもせいぜい一億円。日本における殺人の法定刑は三年以上。地球より重いはずの命の値段が391万円から。ふざけんなよ。

更生は可能か。残念ながら有罪となった者の再犯率は非常に高い。これには社会の側の受け入れ態勢が整備されていないからではないかという批判がある。職に就こうとしても,住む所を探そうにも,前科者を受け入れてくれるようなところがないゆえ,生活に困ってまた犯罪に手を染めてしまわざるを得ないのだ,というわけだ。しかし,経済的理由からの窃盗などは減少している。重大事犯の場合,経済的理由はさらに稀少であり,個人的な恨みや快楽の追求において殺人や放火を行う者が増えている。怨恨殺人の場合,相手が死んで恨みが解消されてしまえば再犯の恐れはない。快楽のために殺人や強盗を犯すもの(遊ぶ金欲しさ,というのも含む)の更生など不可能であり,どうしてもやりたければ家族や社会丸ごと投獄するか,ロボトミー(脳内の怒りや衝動を司る部位を切除する手術,『人格への死刑執行』とされる)を行うくらいしか方法はない。そういう人物の出現を予防する施策が必要であるが,出現してしまったものは抹殺するしかない。

病気にたとえることは適切ではないかも知れないが,こうした異常な犯罪者は社会の中の病巣であり,死刑は患部を除去するメスである。もちろんこれだけではすまず,再発を防止せねば治療したことにはならないので,社会の改革が必要条件である。そこまでやってはじめて死刑は意味を持つ。

死刑存置の積極的意義,癒し

この他の積極的な意義として僕が提示したいのは『癒し』としての死刑である。

現行の刑事訴訟法では,裁判官と検察官と被告人=弁護人の三者が裁判を進めてゆく。検察官が被告人の犯した罪を暴き追及し,弁護人は被告人が必要以上に不利な立場に追い込まれることを防ぎ,裁判官は両者の意見を聞き罪の有無を判断し,法益との比較考量の上刑罰を決定する。これはこれで素晴らしい制度なのだが,まだひとつ欠けている立場がある。それは犯罪被害者である。刑事訴訟法上,犯罪被害者は明確な地位を与えられてはいない。また被った犯罪被害に対する補償も十分には受けられない。社会的支援の仕組みも確立していない。何もないのである。

犯罪被害者の立場から死刑廃止論を眺めてみると,全て被告人あるいは受刑者の立場からのものであって,彼らが犯した罪の重さ,被害者から奪ったものの大きさについては考慮されていない。「罪を償う」というが,ある人間を殺した罪を経済的に償うだけなら論理的に可能であろうが,人間の存在理由は経済的なものだけではない。これだけの稼ぎがあった人間がいなくなったのだから同額を補償すればいいなどという議論にすりかえてはならない。罪は決して償えない。

犯罪被害者は,殺人に例をとると,殺された者だけに留まらない。その家族,知人,属していた共同体(会社なども含む)の心理的ダメージは相当に大きい。犯罪の結果被害者が死に至らずとも,心理的外傷の大きさに圧倒されて自殺することもある。

犯罪被害者を刑事訴訟の現場に加える意義は,これらの傷を癒すところにありはしないだろうか。かけがえのない家族を深い理由もなく殺されたら,その犯人が生き続けることを望むだろうか。それができる人は立派である。僕は立派ではないからできない。殺したいと思う。犯罪者が同じ世界で同じ空気を呼吸していることさえ耐えがたいほどの憎しみ。そしてあまりに大きなものが失われたことへの悲しみ。不倶戴天という言葉はこういう感情を指すのだろう。これを癒すには,犯罪者に絶命してもらう以外にない。被害者が,犯罪者の死によってしか癒されないと主張するのであれば,その意見は検察官や被告人の意見と同様,重く見られなければならない。

犯人が死刑になることが癒しになるかどうかは被害者側のメンタリティによって違う。いろいろ考えてみるとやはり犯人が死刑になることは望まない,と言い切る遺族も多数いて,死刑廃止運動に尽力される方もいる。その一方で証言台で「死んで償え」と叫ぶ遺族もやはり,多数いる。犯罪者が死ぬことによって癒される人がある限り,被害者に対する癒しのひとつの選択肢として死刑を残しておく必要があると思う。

報復が不毛なのは百も承知だ。犯人に死んで欲しかった遺族も,いざ犯人が処刑されると,とてつもない空虚感に苛まれるだろう。アメリカのいくつかの州では,処刑に遺族を立ち合わせる所がある。テレビで見たその遺族は,犯人が絶命するのを見て大声をあげて泣いた。後のインタヴューでは「よかったと思いました」と言っていたが,その後遺族たちはどのような心情を持ったのだろうか。本当に晴れ晴れとした気持ちでいられたのだろうか。それとも僕が予想するような空虚感に襲われただろうか。

犯罪被害者の刑事手続きへの参加

具体的に被害者を刑事手続きに参加させる方法だが,法学部を去って法律から離れてはや四年,リーガルマインドも失われつつある今日この頃。法制度のプロトタイプを考えるなどということは僕の手にあまるが,無謀にも考えてみることにする。

量刑に参加すれば十分であろう。形式としては被害者の弁護人として独立した検察官をつけ,意見陳述を行わせる。内容はもちろん,「これ以上の刑罰でなければ評価できない」というものを論理的に述べればよい。さらに進んで,必要に応じて証人尋問や被告人尋問も行える。ただし弁護側からの被害者の尋問には大きな制限をつける。被害者が法廷でさらに傷つけられることを防ぐためである。弁護側は被告人の利益のために心無い発言をすることも多く,それがレイプ被害者が出廷をためらう理由ともなっていることに注意しなければならない。被害者を貶める内容の尋問については罰則を設けるほどの慎重さが要求される。そして検察側の求刑と別に,被害者側の求刑を行う。

有罪へのベクトルが二つ,無罪へのベクトルが一つでは公平を欠くのではないかという意見もあろうが,裁判官は「無罪の推定」のもとに公判を進めるものと刑事訴訟法に規定されているので,無罪へのベクトルは元来二つなのだ。また被害者側が公判を通じて被告人を許す気になれば量刑を軽くすべきとの求刑を行えばよい。