作曲家っぽく一日を。

目下作曲中の組曲、第三曲が行き詰まってしまった。作曲をやっているとよく起こることだ。どう展開させるべきかをめぐって自分の中でディスカッションを深め、深まらないうちに取り掛かるとこうなる。慣れないことはするものではない。とはいえ、ここでその慣れないことをしないことにはブレイクスルーは得られない。もっとディスカッションをしなければならないし、慣れないことにも10日で慣れなければならない。それでも10日ディスカッションすればそこそこには慣れるとは思うけど。

そこで構想だけを温め続けていた第二曲に取り掛かる。それほど複雑なことをしようとしていない第二曲は、あっという間に6割くらいまで出来上がってしまった。これで目処は立った。第二曲は明日かあさってには完成するだろう。残りの時間は第三曲の難局に充てることができる。

あとは詩の作者に了承をいただかないといけない。そのうち、そのうちと思っているうちにもう10日前だ。Web上で偶然見つけた作者ご本人のものと思われるメアドにメールを送ってみる。お返事、来るだろうか。来なかったら詩集の奥付にある出版社に連絡を取るより他ない。

そうそう、よく考えたら何が10日前なのかこの日記にちゃんと書いていない気がする。身の上話でもしますか。

僕は現在、丸川大学医学部の5年生で、その前に同大法学部を卒業していて今30歳。しかし法学部を卒業し医学部にいる僕が本当に行きたかったのは束京芸大の作曲科だった。
しかしそれは諸般の事情でかなわぬ夢だった。僕自身は、随分小さい頃から作曲家になると決めていた。しかしたまたま人よりほんのちょっとだけ勉強ができたせいで進学校に入ってしまった。進学校に入ってしまうと、通常は音大や美大という選択肢は消える。僕自身はけっこうホンキで考えてなくもなかった(微妙な表現だな)。中1の時は汪蚊社の学芸コンクールの作曲部門で入賞したものだ。模試では必ず志望校に束京芸大と書き、志願者中の偏差値はいつも80台中盤だった。しかし音大は偏差値なんかではない。テクである。テクは、なかった。(そして、今もない。)自信を持って言える。だいいち高校生の受験校の決定権は親に握られている。九州の片田舎から東京くんだりに受験旅行をぶちかますカネは親が出すことになるのだから当然だ。ただでさえ赤貧洗うが如し生活をしているウチに、そんな金があるわけがない(と言いつつ、串英大法学部を受けに行って派手に落ちている)。それに音大出と言えば聞こえはいいが、今のご時世、就職先など限られている。将来のことを考えれば家族の反対はもっともな話だった。串大の不合格通知を見て始まった虫歯の激痛を抱えながらも地元の丸川大法学部に受かったのでそこへ進学。虫歯は心身症である。

心身症の虫歯を対症療法で治しても次に訪れるのは神経症(ノイローゼ)であろう。酒の勢いで入った大学の混声合唱団で、今考えても理不尽以外のナニモノでもない人間関係の軋轢に苦しみ続け我慢を押し通して1年半在籍した後退団した挙句に受け取ったのは第二学年後期において取得単位数たったの2/受験単位数34。「お前の存在自体が『不可』だ」、と言われた気分だった。ではその1年半が人生の無駄だったかというと、決してそんなことはない。音楽の勉強の上では非常に充実した時間だったのかもしれない。あの時期に様々な音楽にバクロされたからこそ今の僕があるのだ。

しかたなく音楽から遠ざかり勉学に打ち込む決意を新たにしつつもミューズへの憧憬やみがたく、さりとて自分自身の音楽をものするでもない、しかし度し難きかなテミスの天秤。無論、就職活動などする気にもならない。怪しげな先物取引の会社の説明会に顔を出してはみたものの、心にもないことだけで構成されている世界に嫌気がさしたくせに詐欺にまで引っかかって100万円ほどふんだくられた。そんな無為無策の時間が流れつつ単位だけは余るほど取って卒業。3ヶ月だけニートを気取ってみた。もちろんその頃、ニートなとという言葉はなかったが。

バイトとはいえ一応非常勤講師として就職してみた学習塾での授業中、ときおり襲われる眩暈のような感覚に悩まされた。「俺はここでいったい何をやっているんだろう」。子供たちを相手に偉そうに講義している僕の内実は痛いほど冷たい空っぽでしかない。中高一貫の新学校だったから高校受験の経験すらない。こんなくだらない奴が何を教えられるというのか。しかしユミコちゃんは無垢な眸をいっぱいに開いて「先生って、何でも知ってるんですねー」と言う。違う。何も知りはしない。君のほうがよっぽど努力しているじゃないか。僕は努力なんかしたことない。したことないんだ……

ふと思う。ユミコちゃんみたいに本気で努力してみたら僕はどうなるのだろうか。高校時代も物理に失敗しただけで理系をあきらめた。でも、やればできるんじゃないか。数学も、学校ではけちょんけちょんだったが、文系としては校外模試で偏差値70近くまで行ったじゃないか。幸い、物理を勉強しなくても受験できるみたいだし、数学もそれほど忘れてはいない。高校生になって遊びに来た元塾生の質問に答えられるくらいには維持できている。やってみるか。というわけで突然、1998年3月初頭、僕の受験生生活が始まった。5月の模試で偏差値64.5。60を切ったら諦めようと思っていたが、これなら諦めるわけには行かない。翌1月に72までは迫ったが、母校の医学部はやはり高く、厚い壁であった。翌年になってようやく、母校の学生証を再び手にした。

はっきしいってどーでもよかった法律の勉強と異なり、医学は真に僕が興味を持って取り組める分野だった。しかも僕の音楽にも理解を示してくださる方が現れ、地元の児童劇団の音楽(+演出助手の助手)をまる4年務めさせていただくことも出来た。勉学に音楽に楽しく5年間を暮らし、今は一年間の臨床医学実習が終了して春休み中。今後一年は就職活動と国家試験準備に追われるので、僕の人生においてまとまって暇なことはもうこの時期をおいて他にないと思われる。

そんなわけでこの時間を、作曲家を自任する者として賭けてみようと思いたつ。長く合唱をやっていた僕の脳裏にすぐに浮かんだのは「朝日作曲賞」。全日本合唱連盟の母体である朝日新聞社が主催する合唱曲の作曲コンクールである。昨年もふと、この時期に応募しようと思い立ったのだが、確か数年前まで単曲で良かったはずが、募集要項を読んでみると「10分以上20分未満の組曲」となっているではないか!技術的なことを度外視しても時間的に無理と思い去年は諦めた。でも今年は時間がある。技術的なことを度外視してやってみよう!というわけで鋭意作曲中なわけなのだ。技術は今も全然ないので度外視するしかない。風車に挑むドンキホーテの如くただ無心に突撃するしかない。

ちなみにユミコちゃんに出会った学習塾には今も勤務している。なんと8年半である。僕の様々なヒストリーの中で、家族、音楽の次に長続きしている。なお風の噂ではユミコちゃんは同じ島の大学の薬学部の一つ下の学年にいるらしい。ということはもう卒業だが、どうしているだろうか。会ってみたものだ。