人の死を喜ぶ瞬間

昔世界史の叢書か何かで、旧ソ連の独裁者スターリンの死(1953年)について読んだことがある。社会科の資料集に載っていた岡田真澄と言えば、あーあの人ね、とわかってくださる方もいるだろう。その中で、民衆がひそかにスターリンの死を祝っていたこと、本当に死んだのかを確かめるために赤の広場(だったかな?)に展示された冷凍遺体(悪趣味だよねえ)を見に行って、ああ、本当に死んだんだと喜びをかみしめた、というような話を読み、なるほどと理解はしたものの、少し引っかかるものがあった。人が死んだことを喜べるようなことがあるのだろうか。

それが自分にもあったのである。小学校一年の時の担任のアサカワという女教師が死んだ、最近地方版に訃報が載っていた、と聞いて、

「ああ、やっと死んだの、あの死にぞこない?」

と嬉しくなってしまったのだ。そして自分にも人の死を喜ぶ気持ちがあったことに気がつき、少し驚いた。

アサカワは顔もそうであったが、心もおよそ人のものではなかった。もちろんオールドミスである。自分に対し惜しみない賞賛を送るよう要求し、生徒のことは徹底的にけなす。今であれば分限免職になるような非人道的なあだ名を平気で生徒につけた。運動のできない子が嫌いだったようで、文武両道でなければダメという偏狭な考えの持ち主であった。

運動が大の苦手で、中学受験のために塾に通っていた僕は特に徹底的に嫌われていた。廊下でいきなり蹴られたこともある。何かとイヤミを言われ、否定され続けた。他の級友たちにしてもアサカワにまともな評価を受けているわけではなく、アサカワに対する不満を募らせていた。文武両道で顔つきも精悍な級友の一人がやけにひいきされていたものだった。

二年の時の小柳先生は、地位こそ代用教員であったが、素晴らしい先生だった。いつもにこにこしていて優しくて、生徒を正当に評価し、えこひいきや差別は決してしない人だった。僕らはみんな小柳先生が大好きだった。アサカワはそれも気に入らないようだった。アサカワが担任だったのは一年の時だけであったが、その後教頭に昇進し、僕らが卒業するまで居座り続け、ことあるごとに僕らをいじめた。僕らに六年間かけられ続けた呪いそのものであった。

三年の時のコマツは、アサカワに輪をかけて破綻した人間だった。生徒をよく泣かせていた。生徒に授業中にタバコを買いに行かせ、教室でふかした。うちの両親は当時離婚協議中で、父親の姿を数年見ていなかったので、男性教諭のコマツは最初慕わしかったが、うちの家庭状況をみんなの前であげつらったので信頼は崩壊した。塾に通い始めたら、アサカワと一緒になってぐだぐだ言い始め、またもやみんなの前であげつらった。でもこれぐらいしか思いつかないのは、アサカワが六年間ずっといたインパクトでかき消されたか、あるいは記憶を封印したのかのどちらかだろう。コマツが死んだと聞かされても、きっと嬉しいんだろうな。